馬のウエルフェアに関する一考察
馬のウエルフェアに関する一考察
本論文はオーストラリアの獣医師Dr.ジョー・ハミルトン=ブラニガン(Jo Hamilton-Branigan)によって2003年に書かれ、クイーンズランド州エンデュランス協会の会報に掲載されました。すぐにその他の州のエンデュランス協会の会報にも転載され、その優れた考察は多くの人に感銘と影響を与えました。今日読み返してみても内容に古さは感じず、ますます高速レース化する世界のエンデュランス界にとって、馬のウエルフェアについて考える一助になるものだと思います。
2020.4.20 FRC代表 田中雅文
ノビスシステム―よくある誤解
<なぜノビス(初心者)の制限があるのでしょうか?>
このシステムは90年代の初頭に始まったもので、若くて経験の少ない馬たちを、走行速度に制限を設けることにより守ろうというものです。
<ノビスホースはノビスのペースで走ることを期待されているということですか?>
いいえ。ノビスホースに設けられた制限ギリギリで速く走り、オープン(イエローブック)ステータス(注)になるや否や、速い速度で競走しようというライダーが結構います。これはこの制度が設けられた趣旨とは違うのです。
この競技を始めたばかりのライダーが理解していないことがあります。それは多くの経験豊かなライダーたちは、ベテランの馬に乗ってもノビスのスピードでしか走ろうとしないということです。
多分、ノビス(初心者)スピードという言葉ではなく、セット(一定の)スピードという言葉に変えて、発想の転換を図る必要があるかもしれませんね。
<オープン(イエローブック)ステータス(注)を獲得した馬は経験豊かな馬(seasoned horses)といえるのではないですか?>
いいえ、適切に準備ができたエンデュランスホース、その馬をこれからあなたが、何年か使い続け、長距離を速いスピードで走らせたいと思うなら、約3年の準備が必要なのです。(ヒラリー・クレイトン Hilary.M.Claytonの優れた著作“Conditioning Sport Horses”参照。)
イエローログブックは3か月で取れることもあります。だからといって、その馬が経験豊かな成熟した馬というには程遠いものなのです。
<それでは経験豊かな馬(seasoned horses)とは、どのような馬ですか?>
経験豊かな馬とは、3年間の忍耐強いトレーニングを経て、その能力を獲得してきた馬のことをいいます。ですからあなたが馬のトレーニングを4歳から始めたとすると、すくなくとも7歳になるまでかかるわけです。
これは、その3年間のトレーニングが順調にいったと仮定してのことです。
現実的な話、エンデュランス馬のトレーニングは4歳の時に、非常に軽い運動から始めるのが適しています。6週間トレーニングしたら、6週間休ませ、その間に馬の成長を待ちます。その後また6週間慎重にトレーニングします。フラットワークやマナーといったものをこの間に教えます。そしてまた休ませます。あなたの馬は5歳の誕生日を迎えるころにはLSDトレーニング(Long Slow Distance ゆっくりした長距離の)を開始できるでしょう。
馬の骨格が成熟するのは7歳になってからだということを決して忘れてはなりません。特にエンデュランスで用いるアラブ種の馬は他品種の馬より成長が遅いのです。馬の7歳の誕生日がすぎるまで、その馬が適切に能力を発揮することを期待してはなりません。
馬の年齢
ここで疑問となるのは、馬が精神的、肉体的に成熟する年齢はいったい何歳かということです。
私はこの問題について考えるにあたり、馬の解剖学者・セラピストとして高名なシャロン・メイ=デービス Sharon May-Davisに連絡をとり、エンデュランスホースの筋肉、骨格の発達と退化について長い議論をしました。
この結果はっきりしたのは、多くの文献、実際の骨の調査結果、また多くの経験豊かなホースマンの証言により、馬の精神(マインドmind)と体は7歳になるまで成熟しないということです。ここでいう馬の精神はマインドというよりソウルsoulといってもよいかもしれません。
<7というのは、馬にとってもラッキーナンバーなのですね?>
そう、この年齢まで、馬は非常に注意深く扱わなければならないし、そのプロセスは教育的効果を考えた建設的なものでなければなりません。
馬の脊椎の骨化(ossify)は7歳になるまで続きます。このことは、あなたが、すでに成熟していると思っていた馬が7歳ごろになって突然成長したように感じることがよくあることからもわかります。ですから若い馬に重い重量を負担させることによるダメージについて想像できると思います。
獣医学的な診断により、若い馬の脊椎の変形が良く見つかります。これは脊椎に負担がかかりすぎたための変形です。T10(第10胸椎)からL4(第4腰椎)が変形し、骨に異常をきたしているのです。背中のこの場所はちょうど鞍が乗る場所です。
運動能力を低下させるような骨の変形は、仙骨の部分でもよく見つけられます。多くのアラブ種の馬は腰椎の骨の数が、その他の馬で6個あるのに対し、一つ少ない5個しかないことも関係しています。この現象はその馬が充分成熟しないうちからハードなトレーニングをしてきた場合によく見られます。
馬体の中の長い骨- 前腕や後肢の上部の骨は最低4歳になるまで成熟しません。また骨盤や肩の骨の成熟はさらに遅くなります。ですから、馬が4歳半や5歳の時のトレーニングは非常に慎重に、軽いライダーが乗って行うのでなければなりません。競走させるのなどはもっての他です。
<それでは競馬の世界はどうなるのですか?>
競馬に使うサラブレッドは成長の早い馬です。アラブ種の馬に比べると早く成熟します。しかし、成長が早いにもかかわらず、競馬産業で使えなくなる馬の数は膨大なものです。なぜでしょうか?
かなりの馬が成長期に問題を抱えます。整形外科的な問題です。何とかレースコースまで行けた馬でも、そこでかかる負荷に耐えられない場合が多いのです。
競走馬の平均的な競技寿命は3年です。6歳を超えた競走馬はaged horse「古馬、こば」(注)と呼ばれます。これらの馬は十分成長し、成熟する前に「古馬」と呼ばれるのです。
<我々はあえて違う道を行こうというのですね?>
エンデュランスというのは馬の管理技術の競技なのです。エンデュランスの楽しみには多くの側面があります。レースをし勝つことを目指すというのは、その一部分でしかありません。適切な若馬を見いだし、一からトレーニングをし、その馬を健康に保ち、困難なコースを共に走り、良い健康状態で完走し続けるということは、レースで勝つことより、はるかに大切なことなのです。もしあなたが、これらの事を心掛け、馬に持って生まれた能力があるなら、競走力はおのずとついてくるものです。
しかしあなたは、いつも基本を忘れず、一時の興奮や栄光に惑わされてはなりません。これを達成する良い方法の一つは、自分と自分の馬に現実的な目標を課すことです。
現実的な目標というのは、かなり優秀で経験を積んだ馬でも、トップでゴールすることではなく、自己のベストの走りを目指すことであり、あるいはゆっくりとしたスピードで完走距離の伸びを楽しむことなのです。
だれもが最初にフィニッシュラインを超えることはできません。しかし誰でも勝者になりえるのです!
昔のエンデュランスライダーの中には獣医検査で失権することを、彼らの馬の管理技術の失敗だとみなす人がけっこういました。また、人々から尊敬されたエンデュランスライダーの多くは、常に完走し続け、完走距離の合計を着々と伸ばしていくタイプの人でした。
現在私は、最も偉大なエンデュランスホースの一頭といわれる、ジャック・ブラウン号の20歳の時の肢のX線写真を見る機会がありました。トム・キルティー・ゴールドカップ(全豪選手権)を完走すること9回、完走距離の合計は11,000㎞以上という大変な馬です。
オーナーのオルガ・バーネットに私は敬意を表します。これらのX線写真は完璧なものでした。使い過ぎによる故障の跡や変形が全く見られないのです。2歳馬の写真かと見まがうほどでした!
ジャックはその時、もう14年間も現役で競技を続けていたのです。(了)
注:オープン(イエローブック)ステータス
オーストラリアでは、エンデュランスホースを登録すると、ログブックが発行される。ノビスの間は表紙が青いログブック(ブルーブック)が使われる。40㎞を2回完走すると、80㎞を走ることができるが、最初の3回はノビスホースとして、走行スピードに制限が設けられる。ライダーもノビスライダーと呼ばれる。
80㎞を3回完走して初めて、馬は有資格のエンデュランスホースと認められ、黄色い表紙のログブック(イエローブック)が発行される。
注:古馬(こば)
日本では4歳以上の競走馬のことを指す。
日本では、2000年まで馬の年齢を数え年で数えていたため、5歳馬以上の競走馬を指していた。しかし国際的には満年齢でカウントするのが一般的であったため、JRAの国際化政策の一環として、日本でも2001年より満年齢で統一されることになった。